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大牟田大会別紙報告 政治ネット設立前後の歴史を振り返る対談

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  • 2月21日
  • 読了時間: 35分

更新日:2月28日

大牟田大会別紙報告



政治ネット設立前後の歴史を振り返る対談

 2025年1月16日大牟田大会において、政治ネット設立前後の歴史を振り返る対談を開催しました。文字起こしの後、発言者において一部校閲頂き、要約頂いているため、動画の発言と一部異なる部分があります。こちらの記録集を正式な記録とします。

【馬垣さん】

今から約48年ぐらい前に障害を持つ方と出会うきっかけがあって、なんでやねんっていうと、当時たまたま結構やってることがうまくいって、たくさん税金を納めてた時代だったんで、そういうことがそういう世界で活かされてないというのは初めて知って、たまたまなんですが、障害を持つ人が普通に働くことを普通にやったらええやんということで、よくわからんまま、大阪の観光地が箕面にあるという箕面大滝って言われる、紅葉の天ぷらで有名なんですけど、紅葉の葉っぱを天ぷらにしてるんですね、かりんとうのようなもんなんですが、まあそこのお宮さん街にスパーガーデンという巨大な温泉施設があって、その企業の作ったエスカレーターの乗り口の真ん前の店舗が空いてたんです。たまたま。それを勝手に借りて、知り合いになった視覚障害の方と「障害者の働く店」ということで、夢を広げるということで、今考えたら恥ずかしい名前をつけたんです。

「タンポポの家」という名前をつけて、タンポポの店というのをつけて、そこで障害を持つ人との関わりを具体的にやり出したんです。何も知らない制度も知らなければ、ヘルパーという言葉も正直、その通りで知らなかった。だけど、何か方法がないんだなというのがあって、箕面市役所の福祉課に相談に行ったら、「箕面障害者労働センター」というのがあるから、駅一つの先にあるって言われてですね。でそこにお電話を入れて、それが、この会をきっかけを作る人のところで働いていた八幡隆司さんという後に障害者関係で初めて地方議員に出られる方なんですけど、その人にお会いしたんですが、いかんせんそこがもうボロボロの建屋で、僕はセンターと聞いたもので、すごいものが立っている思って行ったんですね。ほんだら本当に農機具を置くような掘っ立て小屋のようなところで、脳性麻痺の方が粉を振ってはったんですね。何してるんかと思ったら、廃油で洗濯石鹸を作ってはったんですね。ちょっとびっくりしたというのが正直です。その時にいろいろ話をしたら、「その話はうちの代表の河野英忠と相談しろ」と言われて、まあ河野さんという方にお会いすることになりました。多分河野英忠さんってご存知の方っていてますか。いてない。あ、ご存知ですかどなたですか。えあなるほど。「そよ風のように街に出よう」という障害者問題の機関誌を長年出版されていた方で、もう廃刊になって休刊になったんですけども。5年ほど前に、それまでは本当に全国の心ある教職員組合の方はほとんど愛読されていた本で、3か月にいっぺん特集を組んでですね。全国各地の地域でいろんな取り組みをしている障害者のお宅にとか事務所に行って取材をしてました。たまたまカメラが僕好きだったもんで、「カメラマンせえ」言われてですね。

その編集長の河野さんと、全国各地に取材に約3年行きました。その間にいろいろ車中でいろんなことを教えられました僕正直、その当時ですね、よく障害者の人たちとかと運動の話をすると代々木っていう言葉が出てくるんですよ。代々木の意味が僕わからなかったくらい政治音痴だったんですね。そういういろんなことを教えてもらえる中で、この方の壮大なる思い、健常者の方ですけども人権問題、労働問題本当に精通したね、戦う戦士のような方々だったんですが。この方が、この会の初代代表の入部香代子さんとも青い芝運動をなんていうんですかね、火をつけたような人、それから全国障害者解放運動、通称全障連というものを必要だろうというふうに口火を切った方なんですねこの方が。

その人が、「障害を持つ人たちの取り巻く状況を変えていくのには、やっぱり政治が大事やちゃうか」ということを言い出しましてですね。飲み屋でブツブツと言うてはるんですよ。壮大なる思いを語りはってね。わけわからんままに、「やっぱりそうやな」と役所に行っても本当に中途半端な話しかならないし、議会を変えないかんなというふうな思いも僕も必要性を感じてて、そういう膨大な話をしようということで、ここで八幡隆司さんという人が1988年だったかな、箕面の市議会議員選挙に出ようということで、大阪の北摂の箕面市の隣が豊中市その横が吹田市、その横が茨城市ということがあってですね。近隣の僕らのように反差別運動をしている障害者団体が協力してですね。もうあっちこっちで、「桃太郎」ってね。「八幡隆司」、「福祉の八幡」って旗持ってぐるぐる僕ら、市内を走り回ってですね。選挙戦をやりました。通ったんですね。最下位からちょっと上でしたけども。

そこから、4期やりました。その間に私たちは、八幡さんを中心に選挙の戦い方の僕らなりのマニュアルまでいかなかったですけどノウハウを一定掴んで。で、その河野さんがですね、豊中で踏ん張ってる、なんちゅうんですかね、『張り切り親分』っていうあだ名がついてる入部香代子さん。要するに、シングルマザーで二人の子育てをしてですね。本当にすごい豪傑だったんですが、その方を選挙で打ち出そうと。日本初の車椅子女性リーダーということでマスコミにも戦略的に僕たちは広報してですね。やりました。ちょうどその流れの頃に、超弱視の参議院議員の堀敏和さんという方が、当時は確か社会党だったかな、でしたね。出られた。ちょうど落選されて、これではいかんないうことで、東京で障害者運動をしていた二日市さん、それから、全障連の当時の議長の楠敏雄さん等々お歴々がですね、集まりまして、焼き鳥屋だったという風に僕は記憶してるんですが。僕は、横の席にいてたんですね。そういう全国的な中心メンバーの活動家でもなかったんで、河野さんについて一緒に勉強してた時代だったんで。やりました。

その時にいろいろ話をされて、みんなで入部香代子をちゃんとやっぱし、議場に入れていこうということでですね。もう本当にその彼女が初当選した時には議会事務局が飛んできました。どうしたらいいかわからないということで。そこから、この戦いをもっと広げていくべきやということで、当時八幡さんは議員をおりられて、私と八幡さんがまあ事務局的な立場で、この障害者議員ネットワークを広げていこうというふうな前段に話としてはあります。

で、僕はもう今亡き河野さんなんですが、今私が活動を中心に据えている被災障害者支援認定NPO法人「ゆめ風基金」も彼がですね、神戸を一緒に見に行った帰りにですね、「これは金いるぞ。なんとかせなあかん。お前どう思う。」「いや、もういるのははっきりわかるんですけど、どうしましょう。」ってなったら、「よし基金で金集めしろ」って言われてですね。

それが、この今年で30年を迎える「ゆめ風基金」の活動につながりますそれと同時進行的にこのネットワークも始まってきたということで本当にその河野秀忠という人はですね、本当に先を考えながら、膨大な、当時は、「ホラを吹いてる」って僕らもよく言われましたけども、30年という歴史を刻んできたなというふうに私自身は思っていて、もしこの原稿が表に出る時にはいろんな人の顔が出すこともあるし、亡くなっている方が大半なんですねこの話の登場人物の二日市さんも楠敏雄さんも河野秀忠さんも入部香代子さんも亡くなっているので、万が一私が、間違ったこと言ってたらダメなんで、文字起こしをする時には、ぜひもう一度、確認をさせて頂いて、それぞれの今その方たちの

運動を引き継いでいる方にですね、ちょっと確認をしながら、ちゃんと残していって、障害を持つ皆さんがですね各地で政治議会を変えていく、っていうふうなことをやっていただきたいし、やるべきだと思っています。

特に、この十年余り、自立支援法からこっちですね、障害者政策がどんどん正直やりにくくなっているし、今、民間事業者が参入するようになってから、本当に僕は、障害者の自立と完全参加というのがですね、危うくなっているなと、金儲けの道具にされていることを強く悔しく思っている今日この頃です。でいいですか。

 

【古庄】

ありがとうございました。

この会も会員さんがちょっと変わったけん、馬垣さん、入部さんはね、知っとる会員さんが半分もおらんのですよ。で入部さんの24時間介護の初の議員ということを説明いただいて、その後、大場さんの大牟田の活動から市議会議員になられた大牟田の活動を、続けて報告いただいていいですか。

 

【馬垣さん】

はい。えーと、あの入部香代子さんという方は、豊中でお住まいされていましてですね。青い芝運動の、要するに、「戦士」と言っていい方です。ご主人と一緒にですね、青い芝として全国展開するために沖縄に派遣されて、沖縄で自立運動を、なんちゅうんですかね、お手本を見せたり、外に出ていない障害者を外に出ていこうというふうなことを、全国的に活動していました。

そうです青い芝は、脳性麻痺の人たちがですね、愛を否定して、親も否定するという、「差別の始まりは親だ。」という過激な障害者団体で、一つの個人の命として、戦って、自分の自立生活を勝ち取るという人たちですね。

とりあえずは、まず、河野さんとか私たちみたいなのが、キャンプの計画をしてですね。まずはキャンプで外の社会を知ろうということで、在宅の障害者の家庭を訪問するんですね。で、「キャンプに行きませんか」って誘ったら、「もういやうちの子供は」とか言って、「そんなことないです。ちゃんと私たちがお迎えに行きます。」って言ってですね。でまずは、「あのプレキャンプやります。」ということで、一遍顔合わせの食事会みたいなまあ、なんていう炊き出しみたいなのを用意してですね、こう、何人かの健常者のグループ、その健常者のグループはグループゴリラというんですね、たくさんの健常者が集まって、大阪市大とか、大阪府大とかの大学生の人権関係に関わる人とか、部落解放運動に勉強している人たちを巻き込んで、介護者グループ「ゴリラ」というのを作ってですねそのゴリラが、いろんな在宅障害者の情報を集めては訪問して連れてきて、その人たちに健常者と一緒に、ビールなんか飲んだことない人もいっぱいいてたしね、みんなでワイワイ騒いで、こんなんして健常者とつながってやっていこうと、「あなたは人としてここの町で生きていけるんだ。生きていくべきなんだ。」みたいなことをレクチャーをしまくって、本当に重度のほとんどが脳性麻痺の方が多かったですけども、そういう活動に刺激されて、入部さんもほんまに鍵一個でねお母さんも昼働き、本当に厳しい状況下でおられたんですけども、初めて外に出て、感激を受けて、私もやりたいっていうふうな人が一人二人三人で増えていきました。

今なお青い芝としては、全国団体としてですねまだ少数ですけれども、頑張っておられるというのが実態です。

基本的には、会議とかそんなんには健常者は入れません。介護者として呼ばれて入る時はあります。入って、「水飲ませてくれ。」って、「はい。」って行って、また僕らは別室で会議の終わりまで待っているような、本当に全否定をしながら、当事者が運営し活動を決定していくというすごい会でした。

それもそういう必要性を訴えたのが前段で話をした「そよ風のようにまちに出よう」の編集長の河野秀忠だった。河野秀忠という方なんですが、本当に僕はすごい親父っていうか兄貴分だったんですね。その方の紹介で、全障連議長の楠さんが紹介されて、楠さんと一緒に僕は大阪府下で、いろんな運動、それから全国組織のDPIとかいうところにも一緒に連れて行っていただいて、DPIのメンバーにもさせてもらったり、いろんなことを作っていただいて僕自身が河野さんと楠さんに障害者運動を教えられたという感じです。で、入部さん自体は、24時間介護者を入れて、ええ無給、無給とかしてその時代にそういう制度がなかったもんで、彼女はええいろんな彼女の、彼女に惚れた人たちが集まって、女性で「入部家族を囲む会」というのを作られてですね。何人かの専従、専従じゃないな事務局スタッフ的な方がいろんな人に電話入れてですね。「あなたいつ入れる。」介護表を作ってですね、やってはって。僕なんかはその彼女の介護グループがいろいろしてる、介護者がご飯を作ってる、その間、僕は入部香代子と私とで酒を飲みながら、国会に行こうで。夢は参議院議員になってですね。僕が第一秘書になって、赤絨毯を行くっていうのが二人の夢だったんです。そのためには全国的に組織にせなあかんねんとで全国の地方自治体に一人の議員を作ろういうのが彼女と私と八幡さんとの語りだった。まあ八幡さんはその当時は所帯があったんでね、僕のように毎晩そこに泊まって、酒を飲んで夢を語るわけにいかなかったんですけども、僕はパートナーが彼女の介護者の一人だったんで、家に帰らんでも一緒だったみたいな生活を結構長い間送ったこともあるんですけど、本当に親分肌のね。すごい方だったです。多分その方の魅力で、この創世記のネットワークは動いていったかなというふうに私は感じています。

ちょっとたくさんありすぎるもんで、あんまり彼女の逸話で言ったら、大いなる人間の営みとして言って、彼女の旦那さんと一緒に沖縄の大海原に向かって、立ちションならぬ車椅子ションやというふうな豪潔な女性だったので、本当にまぁ僕はもうあとちょっと頑張ってね、長生きしていただきたかったというのは正直あるんですけども。年は、私よりか二つ上のね、五黄の虎のすごい、五黄の虎を僕は信じてないんですけど、彼女にはぴったりの干支だなと思っているような方です。

多分その方の書かれた「はりきりオヤブンの車いす繁盛記」とかいう本はまだまだ多分現代書館か明石書店(書院)で購入できるかなと思いますし(註:現在、在庫なし)、ひょっとしたら残本が自分の家の裏方にあるかわかりませんが、もし見つかれば、一度皆さんに回し読みしていただいてもいいかなとか思うようなすごい方です。

 

【古庄】

ありがとうございました。

その頃大牟田でも、「青い芝の会」の運動とキャンプの活動があって、その後、やはり政治ネットの活動から大場さんを議会に立候補という流れがちょうどオーバーラップすると思うんですが、その辺りのところを大場さんに語っていただけますか。

 

【大場さん】

大牟田の大場と申します。

体調があまり良くないので、長い喋りがあまりできませんけれども、よろしくお願いします。

まず最初に、障害者の自立と政治参加をすすめるネットワークは、皆さん方の日頃の取り組みに感謝したいと思います。

いろいろな差別現象が起きた現場に行って、そしてその解決に向けて、真摯に取り組んでおられることは、ニュースを通じて拝見しておりました。

最近では、名古屋のお城の問題とか、色々あると思いますけれど、でもね良いことだなと思ったのは、ただそこに訪れて、「差別をするな」という正義の押し付けではなくて、どうして差別が生まれるのか世論ともに考えていこうという、丁寧な論議をきちんと求めていらっしゃるんです。

その姿勢に感謝を申し上げたいと思いますし、今日は大牟田でこういった会議を開いています。本当にありがとうございます。そのお礼を言いたくて、今日は出席させていただきした。

今馬垣さんからお話し頂きました入部香代子さん、僕の大好きな女性です。とてもかっこいい、とても可愛い女性でした。

自分が議会に進出しようと思ったのが、一期ぐらいの議事録をずっと読んでいて、図書館で読んでいて、障害当事者自身が障害者施策を求めた質問というのが1件もないということに気づきます。

これは何とか流れを変えなくちゃいけないではないか、障害当事者が、ちゃんと議会に一人いないと障害者の思いは届かない。まちづくりで反映されない。ということだと思うので、そこに進出していこうという思いを深めていたころ、入部香代子さんと知り合って、そういう話を何度か聞いたことがあります。

そういうことです。あといろいろな質問とか答えてはいきたいと思いますけれども。今日はよろしくお願いします。

 

【古庄】

ちょっと補足しますと、大場さんの関わっている今で言う地域活動センターⅢ型、昔でいう共同作業所では、馬垣さんと同じようにキャンプをしたり、24時間介護が必要な重度の脳性麻痺の方のボランティアとともに介護とかをされていた活動がございまして、今馬垣さんがおっしゃった大阪の活動と同じような活動をされてきました。

あと30分ありますので、恐らく馬垣さんにお願いすると、二泊三日ぐらい語り続けると思うんで。

 だいたい11時に終わろうと思いますので、後半は今馬垣さんと大場さんのお話と私の補足について、もっとここをお聞きしたいとおっしゃる方がいらっしゃったら、手を挙げられて、船原さんマイクを走って持っていきますので、よろしくお願いします。

よかったら、次手を挙げられた方がありがたいですよ。

 

【豊嶋太一さん】

お話ありがとうございました。

とても最後の大場さんのご発言は僕にとっては勇気づけられるご発言です。

茅ケ崎市議会議員の豊嶋太一と申します。

よろしくお願い致します。

最後のお話の中で、障害者政策について、議員が質問する人がいなかったという話ですが、実は茅ヶ崎の市議会議員の豊嶋は障害者政策しか質問したりしないんじゃないかというふうに、それを悪いことのようにという方たちが一部いらっしゃるんですね。

一番はもっと他の関係のない政策についてももっともっと言っていけばもっとそこから抜け出せるんじゃないかみたいなことを言う人たちが多くいて、僕はそれはちょっとそういう考え方もあるかもしれないですけど、やはり僕の後ろにいる人たちというのは、僕に期待を込めて投じてくれた票、それが形になって今の自分の存在するというふうに思っていて、じゃあ何を求めているのかというのは福祉の向上である弱い立場がある人たちの声を議会に届けること行政に届けることだと僕は信じて10年間、この三期の中でやってきたんですね。

やはりその信念は曲げないつもりで、これからも障害者政策とか福祉政策について、取り上げていき訴えていこうと思っているのですが、今の発言というのは、お話というのは、とても僕の中で勇気づけられるというか、自分のやってたことは間違ってなかったんだということを確認できたとても素晴らしいお話だったので、すごく参考になったしこれから力になりました。

そういう発想というのは、、やはり他の議員さんたちの中でも、あまり良しとされていなかったのかというあたりは、改めて伺えたらいいなというふうに思って質問させていただきました。

 

【大場さん】

あの、自分が思ったのは市議会議員選挙に当選して劇的に変わったことは何か、の象徴の一つとしては、エレベーターが庁舎についたことです。

議員になる前に何度も行政と交渉してエレベーターをつけてほしいと希望していたんですけれど、「それがね大場さん気持ちはわかっているけど、建築上、そういうエレベーターがつけられない構造になっているんですよと」いうことでずっと言われていて、断られていたですけれども、選挙に勝って議員になった時に、「エレベーター作りましょうね。大丈夫です。」「構造的に難しい」とは言わんですね。「なんとかなりますよ」それが通ってエレベーターができた後、何が起きたかというと、障害者は見事に助かります。出前を届ける業者さん、あるいは庁舎内のいろんな資料を運ぶ職員の皆さん、いろいろ助かる人が出てきてるわけです。

そのエレベーターを当時も反対していた他の議員の方が、ある日エレベータに乗ってあった。「どうされましたか」「いやギックリ腰をやりました」それはみんな助かっている。障害者政策の真髄は何かというと、障害者だけが助かる話ではない。誰もがいつどこでどんな状態になるか分からない。どんな状態になったとしても人権が尊重され、今までの日常の生活を変えなくても暮らしていける、そういう社会にするための政策だと思います。

だから障害者政策は、イコール社会政策である。ということだと思うんですね。

そして、近年特に生産性がない障害者の人を排除しようという意識がまだまだ広がってきている。

2016年、そんな象徴的なできごととして、一方で、障害者の差別解消の法律が施行された年ではありますけれど、一方で障害者の大量刺殺する事件があった年でもあります。

極論すれば、優生思想と共生思想がぶつかり合った年が2016年だと思います。

これが今後も続いていく。その中で共生思想に輪を広げていかなくちゃいけないというふうに思っています。

そういう意味では、この前の優生思想の裁判というか、子宮摘出事件みたいなものを勝訴しちゃうのは、少し大きな影響を与えてくれるかなととも思っているところです。

もうちょっと言えば、そういう中で、この議員ネットが果たす役割は全国に点々といる議員の人たちはこういったネットワークで結ばれて共生の共生社会という、すいません。ちょっと疲れます。

 

【古庄】

ほかありますか

 

【市川副代表】

初めまして。東京の足立区議会の市川と申します。

私も車椅子を使っておりますけれども、今当会の副代表ということで古庄事務局長のご指導のもとですね、頑張ってくるところであります。

いろいろ質問というか感想なんですけれども、まず馬垣さんが在宅の障害者ということをおっしゃいましたので、「在宅」という言葉はですね、非常に重い言葉でありまして、実は今「在宅」って言っても、ある程度ニュートラルな含みもあるのかなと思うけど、かつてはですね「在宅」というのは、すごく呪われた言葉、「在宅」すなわち親がずっと面倒を見るんだということで、かつては親の会なんだと思うんですが「在宅」にはさせないというすごいネガティブな言葉だった時期がずっとあったと思います。

「在宅」ということが、そういう時代があってまだそういう時代を生きていた。お父さんお母さんあるいは本人の方もいて、そういう中でまた自立生活、「自立」というのは、この当会の本当に主要なテーマでありますけれども、自立というのもあるんだよって、つまりいろいろな人的な支援を重ねながら生きていくっていうそういうのもあるんだよっていうのはまだまだ浸透してないのかなとあるいは社会の中に根付いていないのかなという思いもあります。

また、ある意味そういう考え方で頑張ろうとしてもですね、前代表の傳田さんもそうですけれども、前代表の傳田さんも頑張って自立生活していたけれども、やはり二次障害ですね、事情があってさらに重くなってしまうと、トイレにも全然行きたいときに行けないんだという形になってしまいまして、今度入所施設に入るとったということになってしまいました。

ですから、本当にこの「在宅」という言葉の捉え方、障害者が自立して生きるということのですね、方向性はしっかり持ちながらも、まだまだ難しい実態もあるなということ、そのことは感想として申しました。

それから、エレベーターは構造的に難しいというお話がありまして、これは私も二十年ぐらい前に議員になってから、いろいろ特に鉄道駅などでやったんですけども、とりあえず「構造的に難しい」って言い方もされちゃうんですよ。ここにいらっしゃる人たちはもう相当タフな人が多いと思うんで、言われたから、「あそっか。構造的に難しいのか」って諦めるようなね、そういうことはもう絶対してほしくないな。必ず構造的に難しいって言うけど、言えば付きます。大きい声で暴れればつくんですけど、大きい声で暴れると嫌われちゃうから、心を込めてお願いをすれば難しいんですけど、心を込めてお願いをすればつくので、絶対諦めないでほしいなということ。

それから差別解消法についての話がありました。この差別解消法っていうのは、もともと障害者制度改革推進会議の差別禁止部会、差別禁止部会、差別禁止って言葉だったんです最初はね。差別禁止っていう言葉でずっと内閣府の方でやってて、この推進会議のメンバーも実は法律に基づく審議会じゃなくてですね、閣議決定で作られちゃったんだよね。要するに、ちょっとずつ安く安く作られちゃったっていうのがあって、ちょっとずつ安く、軽く作られたっていうのがあって、最初最後じゃあこの法律案ができますよって。その時にもいきなりね。ずっと傍聴してたんです。ずっと傍聴に内閣府に行って知ってるんだけど。あのいきなり、差別禁止差別禁止ってずっと言ってたんだけど、いきなり最終最後の、あの東弁護士だった。それなのによく知ってるけど、あのいきなり「差別解消法」って名前になって、だからメンバーもびっくりしたんだけど。傍聴してた僕もびっくりしたしたんだけど。要するに、安く作られちゃったっていうね思いがあります。

逆に言えば、育てていかなければいけない法律なのかなと考え方なのかなという思いもありますけれども、まだまだ僕たちもう一度結論を言います。私たち障害を持っている当事者議員がそれぞれの持ち場いろいろと踏まえながら、こういった議論を踏まえながら主張していくということ、諦めないということ、そしてこうした仲間を大事にするということ、これは非常に大事だなというふうに思いますので、引き続き大場さんもですね、私ども後輩を優しく見守っていただければなというふうに思います。

 

【古庄】

ありがとうございます。

ここで副代表の発言を補足します。

2015年ぐらいに東弁護士の講演のときに、直接世間話で聞いたのですが、当時の障害者福祉予算が1.8兆円前後でした。これ4兆円にすれば、まあOECDの中ほどの予算のサービス水準になると思ってそこまで頑張ろうと思ってたけど、3.11が起きた。3.11が起きて、原発が爆発してああいう状況になったけん、4兆円を目指そうとしてたのがかなり厳しくなったという話は実際聞きました。

それと、禁止法が解消法になったのは、政治的な力で全会一致になると思って、自民党公明党が解消法にすれば乗るよということで変わったというのを記憶しています。

あと15分ぐらいですが他何かありますか。

 

【友田さん】

皆さんこんにちは。私は福岡県苅田町からやってきました。町議会議員の友田と申します。

先ほど足立の議員さんがお話しした駅のエレベーターの問題ですね。本当に私たちの所も、エレベーターをつけなきゃいけないんですけど、「構造的に難しいのでつけない。」と

そのJRが出てきて、こんなエレベーターつけなきゃいけないんだけど、エレベーターどころじゃなくて、駅も建て替えてくれってことなんて、エレベーターつけるのに35億円かかりまして言われて、そりゃないだろうと。

どのように暴れたらつくのか、もうちょっと詳しく教えていただきたいと思います。

 

【市川さん】

俺ね、あわかりました。

暴れてっていうかね。とにかく諦めないことですよ。特に職員はね、頭の人が集まって、頭のいい人が集まってるから、なんかね丸め込まれちゃうんだよね。

自分が馬鹿だと思われたくないから、議員がしつこく言うんですよ。で向こうは作りたくないもんだから。35億とかなんかそんなこと言うんだけど、そんなことでないから、あの、いろんな、事例を集めて、あの僕も私の事例を言うから紹介しますけれども、それはね、しつこく言ってください。絶対諦めちゃダメ。エレベーターつきます。特に新しくするんだったら、それはもうつくに当たり前の話だからね。さらにね、エレベーターの話。もうちょっと気になったんだけど、できるだけ箱を大きくして、ここもね、箱ね箱の大きさね。ここもちょっと小さかったんだよね。できるだけ、箱を大きくしないと小さく作られちゃいますから、箱を大きくするっていう方法で、頑張ってもらいたいな。諦めないでくださいよろしくお願いします。必要があれば資料を出しますので、僕の方に連絡ください。

 

【古庄】

補足しますが数年前に、長崎新幹線の工事中、浦上駅に仮設エレベータがつかないと言われていたところが付くようになりました。

この件については、長崎大会の時に、仮設のエレベーターが構造上つかないということを嘘ばっかり言われたので、しつこい私が二回国交省に行ったところ、仮設エレベーターが付きました。

このバリアフリーの件については、十一時以降の意見交換会で議論を深めていきたいと思います。

まず、この政治ネットについてだけ、あと十五分前お願いします。

 

【高橋宜隆さん】

群馬県の伊勢崎市の市議会議員の高橋宜隆と申します。

現在二期目で、七年目。この政治ネットの皆さんにはお世話になっております。

過去の経験、経緯とか全くわからなくて、今回聞いて非常に参考になりました。

29年前にこの会が発足する前からあるということは、3,40年前ぐらいから、多分威勢のいい人たちが集まって、始めた。そしてから、いろいろな方が参加して今現在29年経って、このようにいろいろな議員がだんだん増えてきた。というふうに変化してきたということは、この会における根本は変わらないと思うんですが、時代もいろいろ変わってくると思うんですが、その一番最初から見届けられている方々に政治ネットは今後こうあるべきだとか、ここら辺は今足りなくて、こういう風にやった方がいいんじゃないかなとか、いろいろなところのご指南いただきたいなと思うんですけどお願いします。

 

【馬垣さん】

どうしたもんかな。私的な判断だ…ぶっちゃけぶっちゃけで、ぶっちゃけ、ぶっちゃけ、僕は正直な話はね。政党を作ってほしいなって思ってるんです。

僕自身はね。看板ははっきりさっき言ったように、障害者のことゆずれんって言ったらね。僕は障害党でもいいし、福祉の党でもいいしね。貫くっていうのがすごく大事やっていうふうに僕はね。感じてて。

で、まぁ実際問題。1985年ぐらいに、僕は障害を持つ人地域で働く場を作ろうということで、中学校卒業、中学校までともに学ぶ教育頑張ってきたんですけども、高校が入れないということで中学校を卒業すると同時に、その人と一緒に働く場を作ろういうことで、ストーリーを作って、クッキー購買をやり出したんですね。その頃時代的に、障害者の作ったものを食べると障害がうつるがごとく思う人たちも、正直笑い話の世界ですけどいてはっていうのも実態でね。

それであえて日本で一番安全なクッキーを目指しました。で、まあ、たまたま、関係者の中で、こだわりの強い障害の人がいてて、目方が0.1グラムずれてでもパニックを起こす人がいてて、その人に任すと日本一美味しいクッキーのレシピを作るんですよ。

たまたまですけども、友人でまあフランスのパティシエがいてましたもんで、美味しい味のレシピを教えてくれたんです。でかっこよさね、美しさはこれは元来持ってるデザインやみたいなことでだから、見てくれは悪いけど美味しさはすごかったんです。

ほんで二番目にいいクッキーだということですね。二番が愛となんとかとかいう理屈つけたら、テレビ局とラジオがえらくウケてくれはってね。それが一斉に新聞載ったりしてお金が集まったりもしたし、ということがあって、どんどん自分の働くことが大きくなってしまって、法人を作っていくとなったんですけど、大きくなってくるとやっぱり地域の自民党の議員さんたちが顔を出してきたりして、いろんなしがらみできますやんか。そのしがらみが伝わってない上滑りすることにすごく違和感を持ってた時に、前段の河野さんと週に1、2回一緒に編集会議とかでお会いしてその後、、飲み会に行った時に、彼がそういう話をするんですね。さっきもそうです。エレベーターのこともね、僕らが言ったんじゃよ。全然聞かないだけど。誰か議員を作ったらいけるはずやことで。まず、次回来られると思いますけど八幡隆司さんという作業所のスタッフが、いっぺん道作ろういう(註:議員を送りだそう)ことでみんなで応援してくれ、絶対うまくいけ通さなあかんと言われて。「頑張りましょう」言って、たくさんの障害者の人に協力してもらって「福祉の八幡」、「福祉の八幡」よりももうすごいです。電柱から何から何までほんまにね。手製のポスター張りまくって。選挙戦に戦いましたほんでやっぱ彼が通ったらね。

議会の中で、障害福祉の今まで担当しか出てこなかった交渉がね、部長が出てくるようになったんですよ。こちら側に議員が座り出すとね、そこから変わってきたっていうのを目の当たりに、入部さんも見ましたし、関西大阪の障害者もたくさん見たっていうのがね。僕は大きな力だと思って、僕まだ願いは叶ってないんですけども、なんとかいっぺん山本太郎と会いたいなと思っててね。

ほんま最初あんたどうしたいねんって、障害者を飾りと思っとったら俺は許せへんぞって思いぐらいあるんですよ。僕はね、話をしてないんですよ。たまたま、部落解放運動の先駆者の人が橋下、維新のね、あの人と先輩後輩の関係やったからということで、2回ほど府庁で知事時代にお会いし、話させてもらったんですよ。

で、彼も壮大な思いを持ってはります。先輩と話しするときに聞いてたら、ただそこに欠けているものがやっぱしあるんですよね。それをどう埋めるかと思った時に、ちゃんとした理屈を障害者自身が言える場を作る必要性があると思っていた時に、障害者を入れるんじゃなくて障害者自らがそういう形を作れる時代になってほしいというふうに僕は思っています。

 

【古庄】

一点重要な視点を忘れていたのですが、政治ネットができた頃は、馬垣さんがおっしゃったように部落解放同盟や障害者団体、社会党、労働組合の推薦、応援がほとんどの会員でしたが、今おっしゃったように現在のこの会は自民党さんもおれば維新さんもおるって多様な思考の方々がいらっしゃったので、高橋くんも言うみたいにやっぱここは障害者の制度政策の向上ということで、一点に絞って会を盛り上げていかなければならないかなと思っています。

締めにしたいと思いますがちょっと大場さんの頃の活動者が叶理事長、樋口先生、城野先生に今日は急遽来ていただいてますので、城野先生からちょっと大場さんの活動のもやいとかの補足をいただいてこの会を閉めたいと思います。

何分準備不足であっちいきこっちいきだったけど申し訳ありません。

じゃあ城野さん、マイク持っていきます。

 

【城野さん】

城野です。年金生活者です。七十一歳です。

 

さっき河野さんの名前が出ましたけど、河野さんは当時、確かレントゲンの免許を持ってて、それを原資にして、「そよ風のように街にでよう」という雑誌が、りぼん社から出てたんですよ。

赤字なんですよ。今から四十年ぐらい前の雑誌ですからね。誰も買うてくれんとですよ。

奇特な障害者団体が買うてくれるという状況ですね。なんでやっていけたかって言うと、たしか、河野さんがレントゲンの免許持っていて、レントゲンの裏は銀なんですよ。それをこう、リサイクルに出すとお金が入ってくるから、そういうことで、免許持ちだということとレントゲンのもうけで雑誌発行してたんだと思います。

その仲間が三矢博さんちいうて、介護をしながら、雑誌の編集や記者をしていて、後にパン屋を始めて障害者の人たちと共に生きるという生活実践をしていました。僕らの頃はどういう状況やったかというと、入部香代子が1978年に豊中から福岡市に出てきてから、九大の近くの馬出にアパートを借りて、自立生活運動というのはこういうものだというのをですね。見せつけるちゅうたらおかしいけど、公開してたんですね。それでみんなが集まってきて誰が来たかって言ったら、24時間介護の入部さんのためには、九大の学生を引っ張り出したんですよ。インテリの学生って、インテリっちゃ現実的な対応に弱くて空理空論を話すので、弱いじゃないですか。頭が良くて現実を知らないから、みんな介護に来たんですその頃ね。

その名前がヒトデという名前、ゴリラじゃなくて。九州ではヒトデという名前で、人手が足りんからヒトデということをしてて、学生が集まってずっと来てたんですね、それで生活保護をもらいながら、こういう生活を脳性麻痺の人がしている。いわゆるCPの人が自立生活をして生きているという実際を見て、それで感化されたのが、朝倉出身の久留米に後に、アパートを借りて住む中山善人と書いてヨシトと読むんですね。コロナの時に死にましたけど。全国青い芝の会長をやってた。

そういう人たちと知り合いになったんです。

その前に大場さんは朝日新聞やったかななんかの投書で、中山善人がこういう自立生活を脳性麻痺者がしているというようなことを細々と当事者が書いていたというのを、大場さんはそういうのを見てですね。当時大場さんは確か施設に入っていたかの頃に、中山の投書を読んで、大いに刺激を受けたということでした。中山さんが、周囲の脳性麻痺者に呼びかけて、福岡青い芝の会というのを作ってですね、事務局は馬出にあったんですが、脳性小児麻痺の人たちは、もう分かっているように二十四時間介護ですね。今のように介護保険があったりですね。きちんとしたヘルパー制度とかない時代で全部ボランティアですね。無償のボランティアで会を運営して、脳性小児麻痺者の自立生活を次々と成功させていきました。無償のボランティアの人たちは、思想性が高くないと来ないんですよ。自分の時間を犠牲にして、介護をしているから、結構、自治体職員とかね、教組の人たちとか、そういうインテリの連中たちがほら、来るんですよ。そういう人たちは汗水垂らして働いている労働者の人たちとか障害者に対して劣等感を抱いているから、教師というのは虚業ですからね虚しい仕事ですから、私は罪深いみたいな感じで介護に入る人が、当時はたくさんいました。

そのような状況の中で、大場さんや松尾さんたちと一緒に、主として、大牟田市身障連青年部の人たち、大牟田障害者応援センターってローマ字ですよね。SOSを作ったんですね。

施設の人たちとか、それから在宅の人たちのところに行って、まずはですね、外に出て行くということをやったわけです。青い芝がずっとやっていた、障害者と健全者の交流キャンプというのをやってたんですよ。交流キャンプはお金ないからですね。だからコカコーラボトラーズなどの会社回りをして、カンパを募るわけですが、その頃はもう一万円ぱっとお金くれるんです、今くれんですよ。当時はもう、今から40年くらい前ですから、懺悔の値打ちもないみたいな、私たちは障害者を差別してるみたいな、意識が強い人たちばっかりだったから、たくさんカンパをしてくれるんです。

それを資金にしてから、山や海にキャンプに行きました。

大牟田でもそういうことをした方がいいよねということで、大場さん達と話をしてですね。死んだ松尾さんとか、菊次万里子、大場さんとか僕らとかが集まってですね。

それで交流キャンプみたいなことを、大牟田でも始めたんです。海に一度も入ったことのない障害者もいました。日頃は重い体も、障害のあるなしに関わらず、みんな浮き上がりますから、好評でしたね。障害者応援センターが中核になって行事を計画して参加するというような形になったんですね。そうこうしてる間にですね。大牟田の補欠選挙、1999年にあったんですよ。

それで大牟田でもそういう風にして、政治力を身につけた障害者の人たちはおった方がいいよねっていうような話になって、それで白羽の矢が立ったのが大場さんです。

大場さんはですね。腹芸ができるからですね。政治家向きなんですよ。ちょっと口の中と腹の中が違うたりして。結構、政治家向きなんですよ。そういうところで政治家ってそういうとこあるじゃないですか。

大場さんの補欠選挙がちょうどいいんですよ。補欠やけんですね。公明党さんからも自民党さんからも社会党さんからも共産党さんからも票がもらえるんですよ。

それで結構いい宣伝をして、2214票で当選しました。あの時は何であんな風に補欠選挙になったかは、自民党がお金のことで失敗して。社会党が勝って第一党、それで大場さんが通ってですね。大場さんが入ったことによってから、庁舎の中やっぱり議員が出ると庁舎の中を改造せないけんとか色々あって。議会の中もちょっと変えないけんとかですね

いろいろそういう障害当事者の人が政治参加するということは、まず目に見えて、見える化できるんですね。スロープを作ったり、エレベーターを作ったりとか。そういうことが大事なんじゃないかと理念よりもね。まず最初は目に見える形で変わっていくということ。

それでその後、大場さんが勇退するということになりましたが、後釜はどうでしようかと言ったらですね。

ちょっとあの一人おらすと。ほらそこの人ですと、一番暇人やったけんね。

本人はですね。太陽の家から帰ってきてから、ずっと家にいるという状況やったから、僕は説得しないんだけど、田中隆基さんとかそういう支持者の人間が、「古庄くん出馬してくれ」と、説得したんです。

そしてもうお父さんお母さん泣きの涙ですよね。落ちるかもしれんでから、もう落ちたらどげんすると障害者を晒し者にしてるからとか。無茶苦茶でした、一期目は大変でした。

二期目になると、もうお任せしますって、一期目がいい票で入ったやないですか。今度はお任せしていいなということでみんな頑張ってですね。ここにおる高教組も頑張ったし、大牟田のキリスト者奉仕会の有志の支持者もまだ若かったから、機動力もあり、その人達がですね票を取りに入って、障害者が票を取りに行くというのは大変なんですよ。雨の日も風の日も回ってからずっとですね。介護者と一緒に回らないけんから、健全者の候補者が歩きでできる人が、十人回る間に一人ぐらいしかできないんですよ。家まで辿り着くまでですね。

むしろ少し字が書けるから、ビラに自分の字を自筆で書いてですね。ビラは印刷なんですけどそこに「来ました」みたいな事をずっと書いて。本人も大変やったろうと思いますけど、僕は個人としては、そういうふうにして障害者が一枠で大牟田は入ってますからこれを続けていってほしいということですね。ギネスに載るぐらいの市議会議員の長さをして、死ぬまで市議会議員したらいいんじゃないかなと思ってるんですよ。二次障害がない間は、90ぐらいまでなるまでね。もうすごいあの人は何十年って市議会議員しよるばいって、そういう人になってほしいなと思ってます。

とにかくあのあれですよ。むちゃくちゃ僕ら文句言うたですよ。古庄なんしよるととか言ってるから。古庄君はインテリでしょうが。「何しようと。」とか文句ばっかり言うんだけど、古庄くんそれに風雪に耐えてですね。順調、今は、重鎮になっておりまして、私は足元にも及ばないんですけど、そんな風にして、結構楽しくやったんですね。楽しくやったと思うんですよ。喧嘩もいろいろしたんですけど、楽しくやらんと。政治活動はですね。なんか辛気臭いのはあれですけど。

まあそういう訳が分からないこともありましたけど、基本は重度の障害者の人たちと付き合ったことですよね。脳性麻痺の人たちと付き合ってから鍛えられました。

僕が一番言いたいのはね。「愚行権」を行使しただけなんで。「愚行権」うん「愚行権」。

健常者なんかやったらね。ほら、ちょっと酒飲み行こうかなんてスナックとか行って、夜中十二時でも行けるんですよ。ちょっとスーパーに買いに行きたいってビール飲みたいけさーっとできますよ。でも、障害者の人たち、特に重度の人たちにできないのはその「愚行権」、自分がやりたいと思ったときに、やりたいことができないことですよ。人に合わせて全部せないけんから、そういう制度はやっぱ変えないかんね。「愚行権」というのがね、「愚かな行動ができる権利」。そういうものが保障された社会にならないかんすよ。と私はそげん思いました。以上です。

 

【古庄】一時間ちょっと懇談しているけど、叶さん何か補足はありますか。

 

【叶さん】

私も30年前に、いろいろ泊まりの介護に入ったりとか、そういうことをしてたんですけれども、大場さんが選挙に出た時の特徴としては、もう本当にもう寝たきりの重度の障害者の人たちも応援に来てたんよ。でもう夜中の11時12時まで、ええみんなで、あの集まってね。なんとかあの大場さんをあの通そうということで、あの障害者関係の団体がねあの取り組んだのを覚えてますね。

だから大場さんに協力しようとかいう発想は出てない。大場さんを通すということは我々の運動を実現することだっていう思いなんで。多分大場さんも我々が活動した時に「ありがとう」とは言わなかったと思う。一緒に地域を変えていくという、差別をなくしていくためにやっていこうとそういう方だったよね。だからいろんな党派からの応援はあったけど、それとは別に障害者が中心としたグループで戦っていったというね。とってもいい思い出だし、そういう中でいろんな人が育っていったというのもあるかなというふうに思います。

 

【古庄】まあ進行が不手際で申し訳ありませんが、ここでトークショーは終わります。

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